藤田嗣治 絵画と写真
2026年2月10日(火)~4月12日(日)

エコール・ド・パリを代表する画家・藤田嗣治(ふじた・つぐはる、1886-1968)。 早くからカメラを愛用していた藤田は数千点の写真を撮影するとともに、絵画制作にも活用しました。 また、パリで時代の寵児となった藤田はオカッパ頭や眼鏡、口髭など独特の風貌によって自己のイメージを演出し、しばしば気鋭の写真家の被写体にもなりました。 本展は、藤田の絵画について「写真」という切り口によって再考する世界初の展覧会です。 「撮る藤田」、そして「撮られる藤田」にも注目しながら、藤田の絵画と写真の深い関係性についてひもときます。
展覧会の構成
プロローグ 眼の時代
藤田は1913年の渡仏後、すぐに写真に関心を持ち自ら撮影するようになりました。写真がさまざまな領域で普及し、影響を及ぼすようになった時代背景を紹介し、藤田と写真との接点を探ります。また、ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)やマン・レイ(1890-1976)など、藤田がパリで交友を持ち影響を受けたであろう写真家の作品も紹介します。
第1章 絵画と写真につくられた画家
1920年代のパリではさまざまな芸術家が写真という新しいメディアに注目したほか、多くの写真家がファッションや報道の分野で活躍しました。パリで画壇の寵児となった藤田は、しばしば彼らの被写体として取り上げられる中で、周到な自己演出を通して「見せたい自分」「見られたい自分」をアピールし、“フジタ”のイメージを作り上げていきました。藤田の自画像やポートレート写真から、そのセルフ・ブランディング術やイメージ戦略を考察します。
第2章 写真がつくる絵画
本展の開催のための調査を進める中で、藤田が絵画制作で頻繁に写真を利用していることが判明しました。藤田にとって写真は単なるメモ代わりではなく、彼の絵画制作においてより大きな意味を持っていました。藤田の絵画と写真の密接な関係を紹介し、その創作活動における写真の役割を考えます。
第3章 画家がつくる写真
1930年代、藤田は長期の中南米旅行の後、故国・日本に定住し、戦時下では地方を中心として日本国内やアジア各地を旅しました。本章では、その際に撮影されたモノクロ写真を展示するとともに、戦後フランスに戻った藤田が、当時、本格的に普及し始めたカラー写真でヨーロッパ各地や身近な光景を捉えた作品を選りすぐって紹介します。
エピローグ 眼の記憶/眼の追憶
藤田の絵画作品では、自身のルーツや家族の記憶にまつわる主題が、とりわけ晩年に近づくにつれて多く取り上げられています。そうした作品ではたびたび写真が用いられていますが、写真に特有のイメージの力がどのように藤田の作品に作用しているのか、写真は補助的手段を超えた役割を持っていたのではないか――それらを最後に検証します。
藤田嗣治 略年譜
1886年 東京に生まれる。
1910年 東京美術学校西洋画科を卒業。
1913年 26歳でフランスに渡る。パリで、ピカソ、モディリアーニ、スーチンらと知り合う。
1917年 パリのシェロン画廊で初個展を開催する。
1919年 サロン・ドートンヌに初入選し、会員に推挙される。その後、サロンに出品を続ける一方、パリのほかブリュッ
セル、アントワープ等で個展を開催する。
1931年 パリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバを訪ね、メキシコに滞在の後アメリカに入
る(-1933年)。
1933年 日本に帰国する。
1934年 二科会会員となる。
1938年従軍画家となる。戦中は戦争画の中心画家として活躍する。
1949年 日本を離れ、ニューヨークを経由して翌年パリに戻る。
1955年 フランス国籍を取得する。
1959年 フランス、ランス大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名はレオナール。
1966年 ランスのノートル=ダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂のフレスコ画を制作する。
1968年 チューリッヒの州立病院で死去、81歳。
見どころ
見どころ1 記録ツールを超えて ―― 絵画を構成する写真
藤田は、旅先でも日常でも、メモやスケッチをするようにあらゆる人や風景にカメラを向けました。そして、絵画制作の際に、何枚もの写真から細部を抜き出しそれらをコラージュのように画面上で再構成するなど、写真を資料として活用しています。絵画作品とともにその素材となった写真を併せて展示し、藤田がどのように画面を構成していったかを検証します。

藤田嗣治《赤子と子供2人》1958年
東京藝術大学
藤田嗣治《庭園の子ども達》1958年
聖徳大学・聖徳大学短期大学部
見どころ2 自画像とポートレート写真による藤田のセルフ・ブランディング術
藤田といえば、画家を知る誰もが、前髪を切り揃えたオカッパ頭、丸眼鏡、口髭、奇抜なファッション、そして猫を思い浮かべます。これらは、藤田自身が周到に打ち出した「見せたい自分」「見られたい自分」であり、芸術の都・パリで立身するためのセルフ・ブランディングの一環だったといえるでしょう。細部まで巧みに自己演出がなされた自画像と、あまた撮られたポートレート写真により、時代のアイコン・フジタがいかに形づくられ、流布していったかを辿ります。

ドラ・カルムス(マダム・ドラ)《猫を肩にのせる藤田嗣治》
1927年、東京藝術大学
ドラ・カルムス(マダム・ドラ)《藤田嗣治》
1925-29年頃、東京藝術大学
見どころ3 画家の眼の記憶 ―― 藤田の感性が光る珠玉の写真を一挙公開!
旅先で、そして日々の生活の中で、藤田は何に惹かれ、レンズを通してどのように周囲のものを切り取ったのでしょうか。メゾン=アトリエ・フジタ(フランス・エソンヌ県)、そして東京藝術大学に大量に残された写真からは、藤田の対象を選び取るセンス、巧みな構図、そして画家ならではの色彩感覚を見て取ることができます。本展では、戦前のモノクロ写真と戦後のカラー写真をいまだかつてないボリュームで紹介し、レンズを通した画家・藤田の眼の記憶とともに、その眼(まなざし)の有り様を浮かび上がらせます。

藤田嗣治《荷車》東京藝術大学
見どころ4 戦前と戦後、2点の裸婦群像
1913年に渡仏した藤田は、1920年代初頭に、試行錯誤の末に白く滑らかな「乳白色の下地」に黒の輪郭線で対象を描く独自のスタイルを完成させ、女性の肌の質感を捉えた裸婦像によって大成功を収めました。裸婦群像の大作《舞踏会の前》(1925)では、滑らかな絵肌と上品な裸婦の肌色、細く柔らかな輪郭線など、絶頂期の藤田の妙技を余すところなくご覧いただけます。
なお、茨城会場には、戦後に伝統的な油彩技法によって描かれた裸婦群像《優美神》(1946-48)も出品されます。《舞踏会の前》と《優美神》という、全く技法、画風の異なる戦前・戦後の裸婦群像の大作を2点併せてご覧いただけるのは、巡回会場の中で当館のみとなります。

藤田嗣治《舞踏会の前》1925年
公益財団法人大原芸術財団 大原美術館
ボリス・リプニツキ《藤田嗣治》
1925年頃 シャーマン・コレクション
(河村泳静氏所蔵/伊達市教育委員会寄託)
藤田嗣治《自画像》1929年
東京国立近代美術館
藤田嗣治《中南米の子どもたち》
メゾン=アトリエ・フジタ(エソンヌ県)
| 会期 | 2026年2月10日(火)~4月12日(日) |
|---|---|
| 休館日 |
月曜日 ※ただし2月23日(月・祝)は開館、翌日休館 |
| 会場 | 茨城県近代美術館 |
| 入場料 |
一般1,360(1,240)円/満70歳以上680(620)円/高校生1,130(980)円/小中生550(420)円
※障害者手帳・指定難病特定医療費受給者証等をご持参の方および付き添いの方(1名)は無料 ※春休み期間を除く土曜日は高校生以下無料 |
| 開館時間 | 午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで) |
| 主催 | 茨城県近代美術館 |
| 後援 | 水戸市/朝日新聞水戸総局/茨城新聞社/NHK水戸放送局/産経新聞社水戸支局/東京新聞つくば支局/日本経済新聞社水戸支局/毎日新聞水戸支局/読売新聞水戸支局/LuckyFM茨城放送 |
お問い合わせ先
| 住所 | 〒310-0851茨城県水戸市千波町東久保666-1 |
|---|---|
| TEL | 029-243-5111 |
| FAX | 029-243-9992 |
| メール |
【企画展全般について】 |














